【BJJ】「武」を嗜むという事
25.05.02

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現代日本において「武」とは何か?
平和な社会に暮らす私たちが、なぜ柔術に惹かれるのか。
ブラジリアン柔術(BJJ)を通して見えてくる、「武を嗜む」という心の在り方について考察します。

武を嗜むという行為とは
「武を嗜む」とはどういう意味だろうか。
現代の日本に生きる私たちは、もはや刀を抜くこともなければ、命を懸けて争う必要もない。
それでも、我々は柔術着に袖を通し、日々技を交わし、鍛錬を重ねる。
そこにあるのは、ただのスポーツではなく、自己と向き合う精神的な営みだ。
BJJのマットの上では、自分の弱さや傲り、臆病さが露呈する。
逃げたい場面で逃げず、冷静であるべき時に焦らない——そうした一つ一つの判断が、「武を嗜む」ことの本質に近づけてくれる。
日本人と「武」の歴史的な関係
日本人は古くから「武」と共に生きてきた。
剣術、弓術、柔術、そして現代の武道に至るまで、それらは単なる戦闘技術にとどまらず、「道」として精神修養の一環となった。
「剣道」「柔道」「空手道」——“道”と名のつくものは、単に勝つための技術ではなく、人間としての在り方を問う文化的哲学である。
ブラジリアン柔術もまた、その系譜に連なる「現代の道」と言えるだろう。
海を越えて進化した柔術
日本から移民とともに渡った柔術は、ブラジルの地でグレイシー家によって進化を遂げた。
立ち技主体だった日本の柔術が、寝技を中心に再構築され、より実戦的なスタイルとして独自の格闘技へと変貌した。
この“逆輸入”された柔術が、今また日本の道場で根付きつつある。
形式にとらわれず、勝敗と実効性を追求するその姿勢は、現代の日本人に新しい「武の形」を提示してくれる。
ルタ・リブリ誕生の背景
しかし、BJJが育ったブラジルの土壌は、我々が暮らす日本とはまったく異なる。
多くの若者たちは、道着を買う余裕すらなく、日々の生活に追われて道場に通う時間も持てない。
そんな中で誕生したのが、ルタ・リブリ(Luta Livre)というノーギスタイルの格闘技だった。
これは、貧困層の若者でも「裸一貫」で強くなれる手段として広まり、いまやブラジルを代表する格闘文化の一つとなっている。
ブラジリアン柔術は、道着を用いて競い合うことを前提とし、中流層以上の環境で育まれてきた。
一方、ルタ・リブリは、道着を買う余裕すらない貧困層の若者たちが、「道場に通う」ことすら難しい現実の中で、それでも強くなるために選んだ格闘技だった。
彼らにとって格闘技とは、嗜むものではなく、“人生を変える数少ない手段”だった。
教育も機会も限られた中で、自らを守り、這い上がるための“武”だったのである。
同じブラジルという地で生まれながら、BJJとルタ・リブリの背景には社会階層と価値観の違いが色濃く反映されている。
それぞれが歩んだ道の違いこそ、格闘技がただのスポーツではなく、「社会を映す鏡」であることを物語っている。
日本という恵まれた環境で嗜む贅沢
一方、私たちが暮らす日本はあまりにも恵まれている。
清潔な道場、質の高い道着、安全に練習できる仲間とインフラ。
これらが整った環境で、BJJを嗜むことができるのは、まぎれもなく“贅沢”である。
仕事終わりに道場へ通い、ルールの中で切磋琢磨し、怪我なく学び続けることができる——それは、平和と経済的安定に支えられた「現代の嗜み」と言えるだろう。
BJJに込められた武の哲学
柔術は、ただのフィジカルコンタクトではない。
礼節、自己制御、そして反復。負けを受け入れる度量と、勝ちに溺れない謙虚さ。
そこに「武の哲学」が宿っている。
BJJの練習は、身体を通じた内省でもある。
技を通して、己の未熟さを知り、精神を鍛える。
その繰り返しの中に、「道」としての価値がある。
今、私たちが武を嗜む意味
私たちは、戦国武将でも、ブラジルのスラムの若者でもない。
ただし、彼らが持っていた「武の心」に、確かに触れている。
嗜むという行為は、強さを誇示するものではない。
日常の中に非日常を持ち込み、静かに己を磨く。
その姿勢こそが、現代日本に生きる私たちが“武を嗜む”ということの意味ではないだろうか。
まとめ
柔術は、闘うためだけの技術ではない。
それは、「静かな武道」として、私たちの生活を深く豊かにしてくれる。
今この国で柔術に取り組むという贅沢を噛みしめながら、我々は今日もマットに立つ。
武を嗜む。それは、誇りであり、感謝すべき日々の習慣なのだ。

